新年が明けたけれど、あまり新年らしいことを書く気持ちにはなれない。とにかく大変な年明けになった。月並みに過ぎるけれど他に言葉が思いつかない。
それでも自分の人生には、自分自身で対処しなければならないたくさんの物事が待ち構えている。今は目線を地面に下ろして、私の毎日に集中する時だ。一つずつ、一歩ずつ。
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誰かの苦しみを前に、時に人は、申し訳ないと感じることによって、物事のコントロールを取り戻そうとすることがある。でも本当は、ほとんどのことについて、僕たちは申し訳ないと思うことすら出来ない。世界は始めから私のコントロールの下にない。
私の手の内には何も無い、という剥き出しの事実には耐えられないから、「申し訳なさ」が要る。そうやって自分を許す。そうせずにはいられない時があることを、僕はよく知っている。
だけど大丈夫。あなたには始めから何もできなかったのだとしても、大丈夫。それでも、どうか幸せであるように、どうか苦しみが少なくあるように、そう祈って構わない。そう思う。
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僕の心には、僕の知らない僕がいるようだ。
こんなにも長い間、無理矢理に歩き続けるような決心を、いつの間に持ったんだろう。もう辞めようと決めただけで、あんなに泣いて泣き暮れるほど、いつからしがみついていたんだろう。僕はその感情に触れられない。僕はそれを知らない。
でも、僕の中のその人は、強情で、非合理で、気まぐれで、極端なくらい優しく、卑怯な弱虫でもある。その強烈な感情の痕跡に、僕はその存在を見る。
不思議だ。だけど確かに痕跡がある。僕には触れられないのに。いつか話すことが出来るだろうか。出来るといいなと思う。
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生きることは、常に悪戦苦闘だ。その苦闘を否定しないでほしい。苦しみで彩られていたとしても、その苦しみを無かったことにしないでほしい。それが私の生だから。
申し訳ないという傲慢さがあり得る。それは傲慢に見える恐れ。正対して、自分の及ばないものを受け入れることが、本当は受容なんだと思う。自分には理解も想像もし得ないのだという到達。
愛するとは、受け入れること。愛するとは、自分を与えること。神を愛する時、この世界がこの世界であることを受け入れ、私を明け渡す。ねばならないのではなく、ただそうであるというあり方として。
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どうか幸いの多い年になりますように。どうか災いと苦しみの少ない年になりますように。
愛だけがこの世界を照らすただ一つの光。
どうか何よりも大きな愛が、その暖かな光が、あなたを祝福し、あなたを守り、あなたを照らし、あなたを恵まれますように。
In Jesus’ name, I pray. Amen.


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