「私はキリスト教徒です。」
そう自己紹介すると、一瞬、ぎょっとした顔をされることがある。正直に言って、「何か不合理なものを信じ込んでしまった頭のおかしい人」と言う印象を持つ人もいるだろう。実際、僕の口の悪い友人達の中には、直接そう言ってくる奴もいたりする。
かく言う僕自身、自分が信仰を持つ前には、「信仰とは何かを信じ込むこと」という風に捉えていた。
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僕は、結婚した人がクリスチャンで、子供が生まれてから(仕方ない)教会について行くようになった。教会に行くことには抵抗感がある人も多いようだが、僕は父方の伯父一家がクリスチャンファミリーだったので、そこまでアレルギーはなかった。それに、何事につけ突き詰めて物事を考えることが好きな質なので、シンプルに面白くもあった。教会に行けば一応聖書を開き、一応牧師のメッセージを聞いていた。一応。
聖書を読むと、たくさんの奇跡の物語にあふれている。天地創造とか楽園追放くらいまでは、まぁまだ良しとしよう。そういうお伽話は世界中にあって珍しくはない。だけど、イエスの降誕や復活まで行くと、「そんなんあるわけないじゃん!」と思っていた。そして、そういう「あるわけないこと」を信じ込むのが「信仰」なんだな、と当時は考えていた。そりゃ僕には無理だな、と。
しかし同時に、教会ではこうも言われた。「全てを知ったり、理解したりすることは出来ないよ。信仰を持つにはその必要もない。」ええ?じゃあ、よく知らない分からないものを信じるってことですか?そんなこと出来なくない?と、益々混乱した覚えがある。
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今だって、信仰のない人が、イエスは神の子だとか、イエスは死んで復活したとか言われても、「そんなばかな」と思うのはよく分かる。そりゃそう思うよね。別に、信仰を持ったから理性的な思考を失ったわけでも、言葉の通じぬ狂信者になったわけでもない。じゃ、何をどう信じたのか?信仰とは何なのか?
僕自身は、「そんなわけないじゃん」と思っていた頃から、キリスト教徒になるまでの間のどこかで、「信仰とは『世界観』のことなんだ」という納得をした。
世界観そのものというよりは、世界観を形作る「前提」のようなもの。その前提が異なれば世界観は変わる。世界観が違えば、あらゆる物事の見え方が変わる。不合理なお伽話と見るか、真理の啓示と見るかは、その世界観の違いにあると思う。
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それは数学の「公理」のようなものだ。公理は証明されるものではなく、むしろ公理を前提として議論が始まる。「1+0=1」は、それ自体を「なぜ?」と問うよりも「だから?」とその先が始まる。あるいは、ゲームの「ルール」にも喩えられるかもしれない。ルールがあってゲームが成り立つ。反対ではない。
だけど僕らはこの世界の「ルールブック」を渡されてはいない。ルールを知らないまま、もう始まっているゲームに後から参加している。だから誰もが、プレイしながらゲームのルールを学ぶしかない。「寝て起きても私は私のままだ」とか、「この部屋にいる人は隣の部屋にはいない」とか、「死んだ生き物の身体は腐る」とか、そういう「世界のルール」を経験と観察(と教育)によって推測し獲得する。
そうやって身につけた「ルールブック」は、改めて考えるまでもない「当たり前の前提」であって、それがこの世界のあり方をうまく説明できる「唯一無二の公理系」だと、たいていの人は思う(これは意識されていないけれど一種の「信仰」だろう)。だけど実はそうじゃない。ポーカーだってバリエーションがたくさんあるように、この世界を説明できる公理系も一つじゃない。
(日本の人は、「自分とは公理系が異なる人たち」にあまり出会わないからか、自分自身の当たり前が「信仰」だとは思わないようだ。そして別の公理系から世界を見る人と出会うとびっくりしてしまうんだろう。クリスチャンであると自己紹介すると「ぎょっ」とされるアレは、そういう理由かなと思う。)
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世界観のバリエーションは、とてもマイナーなものを考えればそれこそ一人一人に違いがあると思うけれど、特大のメジャーバリエーションとしては、たとえば「神はいるか/いないか」などがある。
「神はいない」と思ったって、現代では大して困らない。ように見える。とりあえず差し当たっては、直ちに影響はない(本当は甚大な影響があると思うけど)。むしろ「神はいる」とか言う方が色々と影響があるかもしれない。よく言われるのは「非科学的」とかかな?
でもどうだろう。そのことをここで議論しようとは思ってないのだけど、僕自身は、科学と信仰は別段対立しないと思っている。それは別の次元というか別種のものであって、矛盾と感じるのは人間の側の問題ではないかと思う。(たとえば「創造の七日間」vs「生命進化の歴史」をどう考えるかとか、面白いトピックなのだけど、それはまた別の機会に。)
とにかくここで言いたいのは、「神はいる」という公理系に立って世界を見れば、「神がいる世界」が見えるということ。そして、「神はいない」という公理系に立って世界を見れば、「神がいない世界」が見える。「信仰」とは、この公理系のことなんだと、僕は捉えている。
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キリスト教信仰を構成する「公理系」は、そこまで多くも複雑でもない、いくつかのシンプルな公理によって成り立っていると思う。一般的に言われるキリスト教の中心的な「教義」が、それにあたるかもしれない。
その中心教義を、自分の世界観の基盤となる「公理系」として受け入れた時、それまで不合理なお伽話としか思えなかったものが、真理の啓示であるように見え方が変わる。何かあり得ないことを無理矢理に信じ込むのではなく、ただシンプルに「そう見える」からそう信じる。そういうものだと思う。
そういう風に「信仰」というものを捉えた時に、「全てを知ることも理解することも出来ないし、信仰のためにはその必要もない。」という言葉は、確かにその通りだとよく分かった。
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でも、どのように?
現代では「神はいる/いない」のどちらの公理系によっても世界は説明可能になったように思える。その中で「神はいる」という公理系を受け入れようと思うのはなぜなのか?それはどんな風に起きるのか?
それは、「信仰とは何か?」という疑問の先にある、「信仰を持つとは何か?」という問いだろうと思う。が、今回は前者の疑問への自分なりの整理をしたところで、終わりにしたいと思う。後者については、また別の記事に書いてみたいと思っています。
それでは。


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